三国志について質問です。
劉備には劉禅以外の子供はいなかったのでしょうか(養子の劉邦は除く)?長反橋でどっかやれ、と放り投げてしまった息子を結局は後継ぎにしてしまっていますが・・・。お家騒動をおそれて長男がなるべきとしたのでしょうか。それとも孔明が劉表の時のように入れ知恵したのでしょうか?
正史に詳しい方、お願いしますm(_)m
劉備が白帝城で死亡したのは西暦223年、享年は62歳です。
この時に劉禅は207年生まれで16歳。
次子の劉永は210年生まれ?とされており13歳、
三男の劉理は212年生まれで11歳です。
ちなみに正史を確認していませんが演義では白帝城で劉備が死ぬ時に孔明とともに魯王劉永と梁王劉理が枕元に来ており、劉備は2人の息子に向かって孔明を父と思って仕えるようにと言い残したことになっています。
16歳になっていた劉禅が暗愚であることはおそらく既に明らかだったと思いますし、劉永は劉禅よりも聡明で
後に蜀漢の滅亡の原因を作ったといわれる宦官の黄皓を弾劾したとなっていますがやはり劉永が後継になることには13歳という年齢の問題が大きかったのだと思われます。
母親の出自の問題もあるかもしれません。
三國志の時代でも例えば袁紹・劉表の後継問題で分かるように長子が後継を外れれば問題もあったのでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%B0%B8 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E7%90%86
上回答者さん違います。
劉備には三人の息子がいて禅、永、理がいます。
確かにお家騒動になる前に劉封を排除したという考察もありますね。
孔明の入れ知恵と言うよりは、長男がなるべくしてなったと考えるのが普通でしょう。
劉備は皇帝となりその後継者は長男と決まっていましたのでそれに習ったと言えるでしょう。
劉禅は苦労を知らず、皇帝に祭り上げられ暗君として名を残します。
それに引き換え曹操の息子達はすぐさま戦場に放り込まれ、苦労していましたから、やっぱり優秀な人材に育ちます。
人は苦労しないと物にならないと言った例ですね^^
え!?。
子供(実子)二人居なかったけ?。
孔明と一緒に劉備の臨終に立ち会ってますよ。
女の子が居たかどうかは分からないけど。
跡継ぎの件は、多分弟もたいして変わらなかったんだと思うな。
自分も記憶が曖昧なんですが、子供は劉禅しかいなかったと思います。
長反橋では今は中国を統一し民を案じるのが大事で超雲が必要なのに、
子供を助ける為、ただ一騎で曹操軍の中を駆け抜けて来させてしまった事に対して申し訳がなかった為です。
跡継ぎに関しても劉備は跡継ぎは孔明にしてすべてを託したのですが、孔明は主君はやはり劉禅とした為で、お家騒動を恐れてではないです。
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