2012年3月13日火曜日

徳川幕府11代将軍家斉の歴史的評価は「子沢山」「秀忠以来の太政大臣就任」「在...

徳川幕府11代将軍家斉の歴史的評価は「子沢山」「秀忠以来の太政大臣就任」「在位55年」位ですか?







>十一代将軍家斉は、どうしても側室の多さばかりが話題にされ、『性豪将軍』だとか『オットセイ将軍』などと言うあだ名があります。

ですが、下半身の脆さはさておき、治世と言う点から見れば、なかなかの賢君だったと見る人もいます。

事実、それを証明する様な逸話も多く残っています。ある時、家斉のお気に入りの牡丹を、掃除番があやまって折ってしまった。これは大変な事をした、下手をしたら切腹かも知れない、と掃除番は真っ青になった。家斉がやって来ると、すぐにそれを見つけてしまい、周囲の者は、どうなる事かとハラハラしたが、家斉は、騒ぎたてる事もなく、『おお、枝が折れたら、かえって枝ぶりがよくなったのう』と、咎めたりはしなかったとか。

また、ある時、近習が『上様は毎年、初夏に王子へ行かれますが、春に行かれてはいかがですか、飛鳥山の桜がたいそう美しいですのに』と言上した所、家斉は、『確かに桜は美しかろう、だが、飛鳥山の桜は、多くの庶民が楽しむ所だ、わしが行けば、二~三日前から人の往来を禁じたりして、庶民の楽しみを奪う事になる。これは隅田川でも御殿山でも同じ事だぞ』と答え、これには近習も恐れ入ったと言います。

さらに、家斉は、三國志の諸葛孔明の像を、吹上の滝見茶屋の所に置いて、これを眺めるのを楽しみにしていた事があり、ある時、『いまは孔明の様な賢臣はおらぬのう』と、ため息をついた。家斉の周囲には、中野清茂(石翁)・水野忠篤・美濃部茂育などの寵臣たちがいて、側近政治を行っていました。その彼らも居たかどうかはわかりませんが、ちょうどその場に居た者たちは、すっかり恐縮すると、家斉は笑って『これも上に、劉備玄徳の様な名君がおらぬからだろうな』と、家斉はよほど三國志が好きだったらしく、自分でも孔明の絵を描いて、そこに詩を書き添えたり、三國志絵巻の制作を命じたりしていたほどだったとか。

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