俗物将軍と呼ばれた11代将軍 徳川家斉は政治家としてはどうだったのですか?
あまり政治には関心を示さなかったと聞いた事はありますが、実際にはどうだったのでしょうか?
>十一代将軍徳川家斉は、どうしても側室の多さばかりが話題にされ、『性豪将軍』だとか『オットセイ将軍』などと言うあだ名がありますが、治世と言う点から見れば、なかなかの賢君だったと見る人もいます。事実、それを証明するような逸話も多く残っています。
ある時、家斉のお気に入りの牡丹を、掃除番が誤って折ってしまった。家斉がやって来ると、すぐにそれを見つけてしまいました。周囲の者は、ハラハラしたが、家斉は、騒ぎたてる事もなく、『おお、枝が折れたら、かえって枝ぶりがよくなったのう』と、咎めたりしなかったと。
また、ある時、近習が『上様は毎年、初夏に王子へ行かれますが、春に行かれてはいかがですか。飛鳥山の桜がたいそう美しいですのに』と言上したが、家斉は『確かに桜は美しかろう。だが、飛鳥山の桜は、多くの庶民が楽しむところだ。わしが行けば、二~三日前から人の往来を禁じたりして、庶民の楽しみを奪う事になる。これは隅田川でも御殿山でも同じ事だぞ』と答え、これには近習も恐れ入ったと言います。
家斉は、三國志の諸葛孔明の像を、吹上の滝見茶屋のところに置いて、これを眺めるのを楽しみにしていました。ある時、『いまは孔明のような賢臣はおらぬのう』とため息をついた。家斉の周辺には、中野清茂・水野忠篤・美濃部茂育などの寵臣たちが居て側近政治を行っていました。その彼らも居たかどうかは、わかりませんが、その場に居た者たちはすっかり恐縮すると、家斉は笑って『これも上に、劉備玄徳のような名君がおらぬからだろうな』と。
家斉はよほど三國志が好きだったらしく、自分でも孔明の絵を描いて、そこに詩を書きそえたり、三國志絵巻の制作を命じたりしていたと言います。
家斉の時代、政治を主導していたのは老中たちだったようです。特に寛政の改革で知られる松平定信は、つとに有名です。
治世期間が長かったために、幕政が腐敗したとされていますが、これは、この時期に大名家の家格向上運動が活発となり、それに伴う賄賂が、表向や大奥向に対して頻繁になされていたことが関係しています。
以上の点から、政治を主導した将軍でないことは分かります。ですが、だからといって無能な将軍だと結論づけることはできないと考えます。
政治を主導しなかった将軍は多くいますし、何より家斉時代については、まだまだ研究の余地が大いにあるからです。
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